最近読んでよかったと思った本(2)
吉本隆明 : 『吉本隆明が語る親鸞』 東京糸井重里事務所
最近読んだ本としてブログに書こうかなと思っていたら、訃報が飛び込んできた。謹んで哀悼の意を表したい。親鸞に関するさまざまな思索を置き手紙のようにして逝ってしまったが、それらに真剣に向き合うことが戦後最大の論客に対する礼儀であり、また、一番の供養にもなると思う。しかしながら、そこは浅学非才の悲しさ、吉本の呼びかけに対してまともな論評が何ひとつできないことに忸怩たる思いである。それでも、人それぞれ、気負わずに、自分の立ち位置から少しずつ歩を進めていけばよいのだと思い直し、今書けるだけのことは書いておきたい。
吉本が親鸞の理念乃至思想について語る場面では、特に目新しいことは出てこない。それは既に、真宗学、禅学、神学、哲学等において語り尽くされたことである。しかし、吉本はそこにとどまらず、現代の社会状況の中にその運用を試みる。善悪の問題や死の問題をも含めて、人間や社会のさまざまな問題を、「緊急の課題」、「永遠の課題」、もしくはそれらの複合ととらえ、未来からの視点を取り込むことによってより大局的に見つめ直し、盲目的な作為や自己欺瞞とは無縁の真にあるがままの仕方で、それらに対処しようとする。この試みは、現代の社会が破滅を回避し未来を切り開いていくための、重要な足がかりになると思われる。
ただし、難しい問題も生じてくるだろう。そもそも親鸞の歩みは、自己の内面を厳しく見つめ、自我を徹底的に排除するという「覚者」としての歩みである。「煩悩具足の凡夫」などという言葉に騙されて親鸞の念仏を容易いもののように誤解してはならない。この純粋に個人的、内面的な歩みを、どのようにして社会に投影するのか。「阿弥陀仏」や「浄土」なるものを構築し、非僧非俗の生活を通して民衆に語りかけ、民衆とともに歩む、という形で、親鸞はそれを成し遂げた。そして究極のところでは「阿弥陀仏」や「浄土」など構築されたもの一切を解体し、「そんなものはないのだ」と本当のところを露わにするのである。現代社会において、それに類することがいかにして可能であるのか。
私見を述べるならば、親鸞が生きたような「覚者」としての在り方を置き去りにして、親鸞の思考形態のみを現代の社会に運用することは不可能であると思う。かといって、特定の宗教思想に社会全体が染め上げられてはたまらないし、そもそも有り得ない話である。唯一の道は、宗教・哲学・思想の枠を越えて、人間の高次の自覚の問題を語り合い、そこが人類共通の基本的視座であるとの認識を共有することである。宗教家や学者、有識者だけの話ではない。日常のさまざまな場面で個々の些事に決断を下すとき、私たち一人一人がその課題に直面しているのである。
(mtj)
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